D-WAR

 韓国ではD-WARという怪獣映画が公開され話題となっている。
 予告を見ると、トランスフォーマーなみにハデで、子供のころから怪獣映画が大好きな私としては興味津々で早く見たい。

 ただし、この監督の作った怪獣映画は、ヨンガリ(邦題「怪獣大決戦ヤンガリー」)もそうだったが、舞台がいつも外国だ。

 日本の怪獣映画は、だいたいどれも舞台が日本国内だ。観客は、自分たちが普段からよく知っている建物や町並みが壊されることによって、臨場感や現実感を感じ、一種のカタルシスを得ているのだと思う。
 怪獣映画ではないが、日本がそっくり沈没してしまう映画も、2度も作られそれぞれ大ヒットした。

 それに較べて、韓国製の怪獣は、国内で暴れることが少ない。前述のように、D-WARは舞台がロサンゼルスだし、ヨンガリが現れたのも「架空の都市」だった。
 グエムルの舞台はソウルの真ん中を流れる漢江(ハンガン)だったが、人はたくさん喰われても、建物は、橋一つ落ちなかった。

 日本人は、自分や自分の国を見る目がどこか冷めている。従軍慰安婦や靖国神社などの歴史問題でも、日本国内ではそれぞれの立場によって見解がばらばらで、一般市民はほとんど関心外だ。領土問題ですら、全国民一枚岩の韓国と違い、さっぱり盛り上がらない。

 冷めているというより、むしろやはり「自虐的」なのではないか? 怪獣映画にもあるように、貶められた自分たちの姿を傍観することで、カタルシスを得るような性向があるのではないか?
 最近はやりの「ネットウヨ」なども、これを一種の露悪趣味と見れば、自虐的な国民性の発露である、ということもできるのではないか?

 それに較べて韓国人の脳内では、ナ(私)とウリ(私たち)の区別をしないため、自意識が肥大化して自らの姿を客観視することができない。
 海外で活躍する韓国人「ウリ」への賞賛は、そのまま私「ナ」に対する賞賛である。
 韓国国内から見た「ウリの」世界観や歴史観が、別の視点から否定された場合、傷つくのは役人・政治家・学者などの面子などではなく、あくまでも私「ナ」の自尊心だ。
 だから韓国人はたぶん、怪獣が青瓦台を踏みつぶしたり63ビルを倒したりする映像を見ても、屈辱感を感じこそすれ、日本人のようにカタルシスやエクスタシーを感じることはないのではないか?

 以上、怪獣映画に見る日韓の国民性の違いでした。日本人と韓国人とは、外見が似ているし、文化的な背景も伝統的なものから現代的なものまで共通点が多いのだが、国民性は正反対だと感じることもよくある。「近くて遠い」と言われる距離がなかなか縮まらない理由も、そこらへんにあるのでわ? と思いました。

 D-Warの予告編を見たことから、ひさしぶりに難しいことを考えて頭が痛くなってきた。温泉サンバでも聴いて踊ることにします!

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by kobugimori | 2007-08-21 15:21