# by kobugimori | 2010-10-08 01:22
12日にアンドレキム先生が亡くなりました。
先生を悼んで、14年ほど前のインタビュー記事を復刻します。当時私が作っていたSeoul MANIACSというサイトに掲載したものです。
今読み返しても、どんな分野であれ創造性の高い仕事をしようとする人にとっては示唆に富む、すばらしい内容のインタビューでございます。
ただ、写真がどっかいっちゃって載せられないんだよなー、それが残念。
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大韓民国の産んだ偉大なファッションデザイナー、アンドレ・キム。60年代初頭のデビュー以来、30年以上ものあいだ世界のファッション界の最前線で活躍され、韓国でその名前を知らない人はいません。今回、そのアンドレ・キム氏に、これまでの活動と創作の秘密をうかがうことができました。
◯長いあいだ国際的に活躍されてきた先生の、デザイナーとしての出発点は、ご自身から見てどのようなところにあったと思われますか。
私はもともと、美しい森や川、山など豊かな自然にかこまれた村に育ちました。小さいころから絵を描くのが好きで、兄弟や村の人達と、毎日のように風景の絵を描いておりました。
小学校の1〜2年生のころ、私の村で結婚式がありました。韓国の伝統的なスタイルの結婚式でしたが、その時のお嫁さんの美しい衣装を今でもはっきり覚えています。
その印象が強かったからか、高校生のころから女性の衣装の絵を描くようになりました。
高校卒業後の1961年に国際デザイン学院に入学、1年間勉強したあと、1962年の11月にアンドレキムデザインスタジオを作り、12月に初めてのファッションショーを開きました。
当時韓国では、国内で最初の男性ファッションデザイナーということでずいぶんと話題になり、マスコミからもたくさんの取材をうけました。
◯その後の経歴について簡単にお話しください。
1966年に、はじめての海外公演として、パリでファッションショーを開きました。たいへん好評で、フィガロなどのフランスのファッション誌から「東洋から強い風が吹いてきた」と称賛の言葉をいただき、フランス国営テレビにも取材されました。
-------この後、30年分の自慢話が延々と続くので省略、ともかく華麗な経歴
◯先生はデビュー以来、非常に精力的にご活躍され、独創的な作品をつぎつぎと発表されているわけですが、そうした作品のイメージはどういうところから得ているのですか。
私は、美術・音楽・演劇・映画・詩・エッセイなどすべての芸術的な事柄を愛しています。特に音楽が好きで、オペラなどをよく聞いています。
私自身は仏教徒ですが、ゴスペルや聖歌などの宗教的な音楽も大好きです。芸術的な発想は、芸術を愛する心から産み出されるのではないでしょうか。
ファッションに関していえば、インドのサリーや日本のキモノ、韓国のチマチョゴリなど、世界中のどの民族もそれぞれ固有の伝統的な衣装をもっています。また、どの民族も自分たちの衣装が世界でいちばん美しいと思っているものです。
しかし、民族衣装というものは、500年、1000年前のその国・その時代の風土や風習・風俗のなかから産まれてきたものであって、忙しく、国境を越えた人の往来の激しい現代にあっては機能的といえません。
現代の私たちがふだん着ている服は、言うまでもなく西洋から渡ってきたものです。こんにちの産業社会の基礎は西洋で発展し、その中で衣装も機能的に洗練されてきたからです。
それでも私はデザイナーとして仕事をするとき、韓国人としてのプライドから、東洋的・韓国的・伝統的な美意識を重要視しています。
ファッションデザインでは、色・線・モチーフの調和が大切です。しかし、調和がとれているかどうかの基準もまた西洋から輸入されたものです。それらの調和を意図的に崩す、いいかえれば調和の基準を東洋的な方向にシフトさせることによって、東洋的なエスプリを表現することが可能になります。
私はこれからも東洋的・アジア的な美を追求していきたいと思っております。
◯長年にわたり国際的に活躍されてきた先生から見て、現在の韓国のファッション界を、世界のなかでどのように位置付けられますか。
韓国は光復(日本の統治からの解放)以後、朝鮮戦争を経て、しばらくは非常に貧しい時代が続いていました。当時の人々は、とても身なりなどにかまっていられなかったでしょう。しかし韓国経済は60年代後半から急激な成長をはじめました。経済の成長にともなって、欧米のファッション文化なども本格的にはいってきました。また、韓国は80年代のはじめまでは人件費が非常に安かったので、海外からの下請けのかたちで衣料メーカーが増えていったのです。
経済成長を遂げた現在の韓国のファッション界には、若いデザイナーがたくさん育っています。ファッションの世界に限らず、現代美術や音楽、コンピュータなどの電子工学、物理科学などのさまざまな分野に多くの優秀な人材が育ってきています。韓国経済の発展と経済活動の拡大にともなって、そうした才能が次々と頭角を表わしつつあります。
韓国のファッション業界も、その歴史の浅さは否定できませんが、今後おおいに発展するでしょう。
◯韓国の若い人たちの服装を見ていると、ここ数年で急速に洗練されてきたように思います。しかしその一方で韓国では、いわゆる「既存世代」と「新世代」との意識の差が社会問題化しているようですが、こうした問題について先生はどうお考えですか。
東京にも青山や原宿などにはアバンギャルドなファッションの若者が大勢いますね。ソウルにもアプクジョンなどの街にはそういう若者がたくさんいます。
韓国は儒教思想が根強く残っていますから、このような若者の姿をみて、眉をしかめる大人も少なくありません。
しかしそういう大人たちも、10代・20代のころは、好奇心にあふれ、先端的なものを求める傾向を持っていたはずです。それが、社会に出てさまざまな経験を積むうちに落ち着いていったわけです。
世代間格差、大人と若者の価値観の差というものは、いつの時代も問題になってきました。現在の社会は、今の大人が若者であった時代に較べ、経済的な豊かさや情報の量がまったくちがいますから、それだけ世代間の差も大きく見えるのでしょう。
しかし私はあまり心配しておりません。髪を染めたりピアスをするのも、成長の過程における一時的なものであって、40代、50代になればしなくなりますから(笑)。
ファッションに興味を持ち、ファッションを通じて自己主張しようという若者が増えるのは、私のような立場のものからみればむしろ喜ばしいことです。
ただし、いくら好奇心が強いからといっても、麻薬のようなものに手を出すこと、これだけはいけません。10代は10代で、20代は20代で、30・40・50代、それぞれの世代でなすべきことはものすごく多いわけです。豊かな人生をおくろうと思えば、頭も体もつねに働かせていなければなりません。ですから、麻薬によって健全な精神を麻痺させるようなことは、絶対にしてはなりません。麻薬に手を出すことは、人生を放棄することと同じです。若い世代の人たちに、これだけは強く訴えたいと思います。
◯最後に、ファッションに関心をもつ日本の人たちに向けてメッセージをお願いします。
日本のファッション業界には、森英恵、山本耀司、川久保玲さんなど世界的に活躍しているデザイナーがたくさんいらっしゃいますね。
今まではファッションの中心地といえばパリとミラノでしたが、近い将来東京とソウルが世界のファッション産業の中心地になるよう、私は心から願っています。またそのために私自身、最善を尽くしていこうと思っております。
最後に私から一言つけ加えさせてください。
私はショーを行うとき、私の服を、商品としてではなく、芸術作品として発表してまいりました。
ステージで行われる芸術として、たとえばオペラにしろその他の音楽にしろ、何百年も前に作られたものを今だに繰り返しているわけです。芸術性の高さは、演出家や出演者・演奏者の力量や技術によってのみ決まります。
しかしファッションデザインの場合、ショーのたびに新しいものを産み出さなければなりません。デザインはつねに新しくなければなりません。同じことの繰り返しはありえないのです。こうした点から見て、ファッションデザインというものは、あらゆる芸術のうちで最も創造的な芸術であると、私は考えております。
-------その特異な風貌と、名前の大きさから、お会いする前は多少の緊張感もあったものの、話をはじめると終始にこやかで意外に気さくな方でした。しかし、優雅なオカマ口調の端々に、韓国のトップデザイナーとして、また一人の芸術家としての強烈な自負と自信が感じられるのはさすがです。
ショップには、お金もちの奥様やお嬢様がひっきりなしに訪れ、インタビューの最中もどこかの大使館から電話がかかってきたりして忙しそうなのに、私のようにヘンな日本人を歓迎してくださいました。
帰るときには、両手でもかかえきれないほどのバラの花束をおみやげにくれて(さすがアンドレ)、でっかい真っ黒のベンツで送ってくれました。ありがとうアンドレ! これからもガンバレ! ガンバレアンドレ!
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故人のご冥福を祈ります。長いあいだお疲れさまでした。